2024.04.11

過去から現代への障がい観の変遷:共生社会の構築と社会的意識の変化 Part1

障がい(者)観の変遷について理解する上で、過去から現代への移り変わりを辿ることが不可欠です。以前は障がいを個人の問題とみなし、治療や改善が見込めない場合には諦める傾向が強かった時代がありました。しかし、今日では障がい者も社会の一員として活動し、社会参加を促進する考え方が主流となっています。この記事では、その変遷を探り、過去の言説から現代の理解への歩みをたどります。

 

障がい者に関わる人々の意識の変化について

障がい者に関わる人々の意識の変化について学んでいきます。障がいが欠陥であるという古い観念を超えて、障がいを多角的な人間観として捉える現代の視点に変化していることを理解します。

医学や医療の進歩、福祉や教育の発展、情報技術の発達などが社会を変える中で、障がい観も大きく変化してきたことを学びます。人々が過去に障がいをどのように捉えてきたかを知り、それが現代の視点とどう変わってきたのかを考察します。

障がい観の変化に関する知識を得ることが挙げられます。そして、学習のゴールとして、障がいが欠陥でないことを説明できる能力と、障がい観の変遷概要を解説できる能力を身に付けます。

 

二元的な考え方から共生社会における仲間としての概念への移行

障がい者と健常者という二元的な考え方から、共生社会における仲間としての概念への移行です。障がいの捉え方が、生物学的な不全や欠損という医学的な問題から、個々の生活の質やしやすさに焦点を移した見方へと変化していることを理解します。

障がい(者)観の変遷を知ることが重要です。かつては障がいを個人の問題として捉え、治療や改善が見込めない場合には諦めと結びつける傾向がありました。しかし、現代では障がい者も社会の一員として活動し、社会参加を促進する考え方が主流となっています。

 

障がい者と健常者の間にあった隔たりや差別が現在では大きく変化

障がい者と健常者の間にあった隔たりや差別が、現在では大きく変化しています。共生社会の視点から、障がい者も健常者も同じ生活者であるという基本的な観点が重視されるようになってきました。つまり、個々の人々が共通して、生活の質やしやすさを重視することが重要とされています。

この考え方は、ユニバーサルデザインの思想に基づいています。すべての人が生活しやすい環境を整えることが目指されており、障がい者や高齢者だけでなく、あらゆる人々が社会の一員として参加し、自己実現を果たせるような社会を実現することを目指しています。

 

個人の身体的または精神的な状態が一般的な機能や能力からの逸脱を示す状態

障がいとは、個人の身体的または精神的な状態が、一般的な機能や能力からの逸脱を示す状態を指します。古くは、「五体満足」という言葉が用いられており、身体のどの部分にも欠け損じている部分がないことを正常と考えられていました。しかし、近年ではこのような表現は時代遅れであり、差別的で不適切とされています。

1998年に出版された乙武洋匡氏の著書『五体不満足』は、手足のない状態で生まれた著者自身の経験を描いたもので、当時の障がい観の変遷を示すものとして注目されました。現代社会では、障がい者に対する差別的な表現や見解は、一般的に不快であると認識されています。そのため、テレビや新聞などのメディアでは人権に配慮し、適切な表現を用いることが求められています。

 

適切な言葉の使用や啓発活動が重要

しかし、インターネット上では自由な発言が行われることがあり、時には差別的な表現が見受けられます。これは、情報技術の発展にも関わらず、古い概念や偏見が根強く残っていることを示すものです。障がい者に対する理解と配慮が進む社会を築くためには、適切な言葉の使用や啓発活動が重要です。

古い表現や言葉に対する考察は、単純に古いから悪いと一概には言えません。各時代ごとに独自の文化やコミュニケーションがあり、言葉もその時代の特性を反映しています。日本語には特に美しい表現が多くあり、赤い色を表現する際にも紅色や朱色、あかね色など微妙に異なる数十種類もの表現が存在します。これらは、昔から日本人が四季のある自然に囲まれて生活する中で生まれてきた表現です。

 

古い言葉や表現が悪いと一概に言うのではない

古い言葉や表現が悪いと一概に言うのではなく、その背景や文脈を考慮する必要があります。時代や社会の変化に伴って、言葉の意味やニュアンスも変化してきます。現代社会においては、適切な言葉の使用と、文化や知識に対する良識ある付き合い方が求められます。過去の言葉や表現を尊重しつつも、現代の価値観や理解に合ったコミュニケーションを心がけることが重要です。

 

古い障がいを示す言葉

かつては身体に障がいがあることを表す言葉として、「不具」や「片輪」という表現が一般的でした。これらの言葉には、「具」という漢字に「備わっている」という意味があり、手足が備わっていない状態を指していました。

同様に、「片輪」という言葉も、身体の一部に障がいがあることを示していました。さらに、古い大和言葉である「つんぼ」や「めくら」という言葉は、聴覚障がい者や視覚障がい者を示す言葉として使われていました。これらの言葉は元々は見た目からくる状態を表す一般的な用語でしたが、漢字の導入によって障がいを表す言葉として定着しました。

 

外見や認知行動スタイルの違いをそのまま個人の欠陥として捉えていた

精神障がい者や知的障がい者を表す言葉としては、「気違い」や「白痴」などが使われていましたが、現代ではこれらの言葉は使われなくなっています。

これは、人権感覚の発展や共生社会を目指す現代社会において、障がい観の進歩とともに言葉としての意味が失われてきたためです。ただし、受け取る側が不快な気分になる可能性も考慮する必要があります。障がいを持つ人々やその支援者が適切な言葉で尊重されることは、共生社会を築く上で重要な要素です。

これらの古い言葉は、現代の人権意識の発達した社会ではあまり使用されないものです。そのため、これらの言葉は古い時代の障がい観を反映していると捉えることができます。かつての社会では、人々は外見や認知、行動スタイルの違いをそのまま個人の身体的、精神的な欠陥として捉え、「障がい」として表現されていました。

 

社会的に「困った存在」とみなされることがあった

昔は一次産業中心の時代であり、人々は自然界に働きかけて生産活動を行っていました。そのため、生産活動に影響を及ぼすような身体的、精神的な問題は、個人だけでなく家族や地域コミュニティの問題としても捉えられていました。その結果、そうした問題を抱える者が社会的に「困った存在」とみなされることがよくありました。

産業構造が現代とは大きく異なっていた時代であったからこそ、外見や認知スタイルを価値基準として「別の存在」と見なされることがありました。これらの観念は、古典的な文学作品や伝説に見られる蛭子伝説や日本霊異記に記された説話などからも推察されます。

 

障がい者は「保護すべき存在」として考えられるようになる

宗教の発展とともに、障がい者は「保護すべき存在」や「哀れみの対象としての存在」として考えられるようにもなりました。古い文献や記録から推察すると、奈良・平安時代には悲田院や施薬院が身寄りのない貧窮した病人や孤児だけでなく、障がい者の救済も行っていたことが記録されています。

生産活動の視点からの障がい観とともに、このような憐憫や保護対象とする障がい観は、現代でも一部の場面で通用する論理として語られます。つまり、「かわいそうだから何かをしてあげる」、「障がいがあるのだから別のことにする」という考え方が含まれます。障がいを理由として、違う場所や内容で専門的な教育を受けるという考え方も、広い意味ではこの延長線上にあると言えるでしょう。

 

近代国家としての日本

近代国家としての日本では、障がいのある人々は保護や取り締まりの対象として見られていました。文部科学省の2010年の初等中等教育分科会配付資料によると、「日本の国家による本格的な障がい者施策は戦後から始まった。戦前においては一般的な窮民対策としての『恤救規則(1874年)』や、『救護法(1929年)』の中で障がい者が救貧の対象とされるか、あるいは精神障がい者に対しては『路上の狂癲人の取扱いに関する行政警察規則(1875年)』等に表れているように治安・取締りの対象でしかなかった」と記されています。

 

救護の方法は基本的に被救護者の居宅での支援が原則だった

1874年から1931年までの恤救規則や1932年から1946年までの救護法では、生活困窮者や障がい者への公的救済が初めて統一的な基準で行われました。しかし、救護の方法は基本的に被救護者の居宅での支援が原則であり、居宅救護ができない場合は養老院や孤児院、病院などに収容するという形で行われていました。

この時代において、障がい者の保護は家族に依存しており、それ以外の支援は民間の篤志家や宗教家、社会事業者に委ねられていました。また、国自身による障がい者施策も存在しましたが、その対象は軍事扶助法によってほぼ傷痍軍人に限られていました。

 

法律や施策はその時代の世論や民衆の意識を反映したもの

戦前の障がい者対策は、家族依存や民間の篤志家、宗教家、社会事業者による支援が基本でした。また、軍事扶助法による支援はほぼ傷痍軍人に限定されていました。法律や施策はその時代の世論や民衆の意識を反映したものであり、障がい者が保護や取り締まりの対象であった点や、家族や宗教的な考えに基づく対策が国の施策として行われていた点が特徴です。このような点から、戦前の障がい者対策は奈良・平安時代から続く障がい観と類似していると言えます。

 

「治る」「治す」「治さなければならない」という考え方

家や村社会を単位として形成された社会では、支え合うコミュニティの最小単位が家族であり、そのため家族には責任が求められました。障がい者や病気の人は通常ではない状態であり、「治る」「治す」「治さなければならない」という考え方が当然のこととして生まれました。

これは正常でない状態として「障がい」を捉えていたためであり、医療の観点にも繋がります。医学や医療が発達していない時代には、「障がいや病気は正常な状態でない」という考え方から、医者や宗教家、祈祷師などの存在が一般的でした。

民間信仰や各種宗教的な方法論では、「治す対象としての障がい」の考え方が通常の考え方として存在していました。つまり、手足が不自由であったり、目が見えなかったりする人々に対しても、「治療」が必要であるという考え方が広く受け入れられていたのです。

 

障がいは生物学的な不全や欠損として捉えられていた

平安時代の宗教説話集には、先祖の怒りによって障がいを持った子供が生まれたり、信心によって障がいが治るという因果関係の話が見られます。これらの話も、時代によって人々の意識としての障がい観があり、医学モデルとして最近まで広く受け入れられてきたと考えられます。

障がいは生物学的な不全や欠損として捉えられていたため、科学の進歩とともに医療の対象として強調されました。医学や科学技術の発展は、宗教や祈祷師などの役割を客観的な根拠のあるものに変えました。つまり、お祈りや祈祷を医師の治療や最新の医学に置き換えたのです。

しかし、その基本的な構造は「障がいや病気を治して正常にする、あるいは正常に近づける」という考え方からは変わっていませんでした。むしろ、科学の進歩は障がい者を医療の対象として強調してきたとも言えます。もちろん、科学や医療の進歩を否定するものではありません。

 

「健常と障がい」「正常と異常」多くの場面で活用されてきた

「健常と障がい」、「正常と異常」という二元論的な考え方は、医学や医療だけでなく、行政的にも、障がい種の説明や障がい福祉の基準など多くの場面で活用されてきました。福祉の分野では、健常者と異なる障がい者を、知的障がい、身体障がい、精神障がい、発達障がいなどと分類し、その程度をそれぞれに決定してきました。

これは、それぞれに応じた福祉施策を提供するための考え方です。教育分野でも、視覚障がい、聴覚障がい、知的障がい、肢体不自由、病弱などの障がいを持つ子供を分類し、それぞれに対する専門的な教育の場と内容を提供してきました。

これは、施策の効率的な運用を基本としていますが、障がいの有無やその種類などをベースとして「健常者に近づける」という考え方があり、これは医学モデルと呼ばれるものです。

 

1980年前後から「自立と社会参加」という言葉が使用されるようになった

このような考え方の背景には、長い歴史の中で常識とされてきた、「障がいのある人を障がいのない人と同じようにする」という考え方があります。そして、その延長線上に、1980年前後から「自立と社会参加」という言葉が頻繁に使用されるようになり、障がい者の社会参加が奨励されるようになってきました。

この時期から、「ノーマライゼーション」という言葉が一般的に使用され、障がいのある人も自立と社会参加ができるようになるという考え方が普及してきました。しかし、依然として、「治療や更生によって、障がいのある人が障がいのない人と同等に生活できる」というニュアンスが強く残っていました。

まとめ

障がい観の変遷を振り返り、過去から現在に至るまでの歴史的な背景や社会的な変化を考察しました。かつての障がい観は、障がいを個人の問題と捉え、社会からの排除や差別が一般的でした。しかし、現代では共生社会の視点から、障がい者も健常者と同じく社会参加を促進する考え方が広がっています。

適切な言葉の使用や意識の啓発は、共生社会を築くために重要な要素です。障がい者と健常者が共に尊重され、自己実現を果たせる社会の実現に向けて、私たちの取り組みが求められています。パート2に続きますのでぜひそちらもご覧ください。

 

参考

障がいの理解:アシスティブテクノロジー・アドバイザー育成研修用テキスト

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